コンサルタントの眼
第1回「批判する時、される時」 by 果田 理奈
昨今、情報過多は、良い時悪い時とで極端な展開につながることが多い。
あまりの情報の膨大さゆえ、「正しく理解されていない」「正しく理解していない」に展開する。
コンサルタントの「この状況をどうするか?」とは、まずダメだし(批判的視点)を持ち、そして打開策を提示する。 その提示が、一発でスイートスポットに当たる事は稀である。
故に、自らの提案に対しても批判的であることが常に必要である。
人間は批判されても、直ぐに理性的に思考することはなかなか難しい。 昨今の経済状況は、経営陣の戦略に起因するものというよりも、外的要因が大きいため この状況にあって、自らを批判的に省みることができる人は、多くはない。
だが、変化に対応できなければ、生き延びられないゆえ、改革を余儀なくされる。
さて、改革とは変化、どこを何故、変化させるのか?という議論は、必然的に批判が入り混じる。 批判された時、それを、如何にとらえるか? これが今回のテーマである。
人が何かを批判する時は、「自分は処理する機能が○○とは異なる」と主張していると、私はとらえている。
例えば、人が何かを批判している場合の根拠となる点は、その人自身が投影したイメージ(像)=その人の思考の結果であり、すなわち、批判している人の光学系を映し出しているといえる。
もし私を批判したのであっても、それは、私という実像を相手の光学系を通した結果、結像した像に対しての批判なのである。
同様に、自分自身が批判思考に陥っている時は、自分の光学系による結像と相手の実像が合っていないケースが多い。
もし歪んでいる像が結像されているということは、光学系に偏りがあるということ。 レンズが正しく磨かれていないと、ボケたり歪んだりすることと同じなので、正しい方向を見出すためには、ここに補正が必要である。
批判だけしても、補正の方向手段が見当たらなければ、思った通りの像は結像しない。
つまり、その歪を改善する手段、方向が分からなければ、歪んだ光学系は変わることができない。
お互いに、不備な点や弱点を指摘し合うだけでは、改善には向かわないのである。
さて、本来のコンサルタントの仕事というのは、この部分の改善である。 結果を出さなくては、仕事として成立しない。
コンサルタントに依頼する、という時点で、何か問題が発生していて、その改善の手段と方向性を問いているのであるから、コンサルタントは、いかにして、この光学系の改善を行うか?
経営者のビジョンから短期的・長期的計画を立て、実践可能なプログラムを立てて差し上げるか?である。
批判的であることは、改革に必然であるが、精神そのものが疲弊してしまっては、元も子もない。
如何にして、楽な気持ちで、変化に導くか? 精神的にも辛さを強いる批判の応酬に浸かっていては、解決しないゆえ、冒頭のように考えるに至った次第である。
いずれにしても、成功する!という意思を持ち続けることで、打開策が生まれいずることを伝えたい。
昨今、経営者のビジョンそのものの在り方が問われる品質問題に日本企業も直面している。
利益に終始すると、その活路は開けない、もしくは後ほどそのツケを支払うことになるであろう。
明らかに、確認やデバッグをしていなかったんだね、と容易に推測できる事故が多発しているが、100%の成功率を求めても、それは現実的ではない。
批判が批判を生み、人々が疲弊してしまっては、更に負のスパイラルに陥ってしまう。
それは、日本経済の中で、今まさに実際、起こっていることなのだ。
組織が「経営者のビジョン」に向かいつつある時期に、ある切片を見るとベクトルが違う場合もあるが、それは、飛行ルートが最終目的地に最短直線では飛ばないことと同じで、次第に収束していくスパイラルとなればよい。
もし、失敗があったとしても、それはよい肥やしになる、と思い、無駄ではないと考えよう。
実践によって得た実感は何物にも代え難い智慧となる。実感を礎としない計画は、ピンとこないものだ。
最後に、懸念点が存在するなら、それを排除する努力=捨て去る勇気も、この時期に必要であることを忘れないでいたい。
その際、批判で終わらせず、お互いの光学系が合わなかったんだね、という気持ちでありたい。
経営者にとっては、これが一番難しい。
2010/03/11
果田 理奈
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国内光学メーカ勤務後、システム開発現場にて在宅マネジメント体制を確立。
プロジェクトマネジメント/コンサルティング分野にて、企業の戦略を提案することが得意。
アトリエ イシカワ コンサルタント